全国「一の宮」徹底ガイド

最も簡単に始められて最もクリアが難しい巡礼「一の宮巡礼」の情報サイト

尾張一の宮「真清田神社」歴史ガイド~信長登場まで1300年間No2に甘んじた最強の地域

東海道 尾張国(愛知県) 真清田神社/祭神:天火明命(ほあかりのみこと)

熱田神宮が有名だが一の宮は一宮市にあり

 織田信長と豊臣秀吉、戦国時代の二人の天下人を生んだ尾張。ここはある意味で日本で一番有名な一の宮かもしれない。というのも、全国の行政市で「一宮」の名を持つのが「愛知県一宮市」だけだからだ。

 

 ところが、肝心の神社の名前のほうはかえって知られていない。尾張で最も有名な神社ときけば、三種の神器のひとつ「草薙(くさなぎ)の剣」をまつる熱田神宮(名古屋市)と答える人が圧倒的に多いだろう。

 真清田(ますみだ)神社の祭神、ホアカリは、古代の豪族、尾張氏の祖神。

 

ヤマト王権を作った裏方「尾張」

f:id:emiyosiki:20180128154043j:plain

 古墳時代に尾張氏は東海地方で最大の勢力を誇った。彼らは単なる一地方の豪族ではなかった。

 考古学的には、ヤマト王権の創立の立役者であることがわかっている。それどころか、2番目の「ヤマト」といってもいいくらいの力があった。

 ヤマト王権初期の中心地は、大和(奈良県)一の宮の大神(おおみわ)神社がある三輪山のふもと。ヤマトの初期の都の可能性が高い纒向遺跡があるが、ここから出る土器で、奈良以外のもののうち、じつに49%が東海から来たものだったのだ。

 纒向遺跡は弥生時代と古墳時代をわける端境期にできた新しい”都市”。しかも、土砂崩れなどの影響で人が住めなかった場所にあえて、ゼロからつくられた人工都市であった。

 この都市作りには、尾張だけでなく西日本からも人が来ていたことがわかっており、新国家「ヤマト」をつくるために全国の人たちが協力(なかば強要されてかもしれないが)していたのだ。その中心に尾張の人たちがいたことは間違いない。

 

前方後方墳という東日本のスタンダード

 

 また、日本を代表する古墳は、前方後墳だが、尾張の初期の古墳には四角と四角を組み合わせた「前方後墳」が多い。ふつう、考古学の世界では、前方後円墳に劣るものと位置づける。

 しかし、それは後世からみた結果論であって、ヤマト王権ができた時代には、「大和」型の古墳と、「尾張」型の古墳が同じ価値をもって併存していた可能性もある。

 さらにヤマト王権ができる過程で、東日本に広がった「ヤマト」的な祭りや道具などに使われたとみられる土器の形が、じつは尾張型だったことが最近の考古学の調査でわかってきている。つまり、尾張とは、東日本を管轄する裏「ヤマト」だったわけだ。

 

NO.2の矜持

 古代に尾張は4度、裏方として登場する。

 歴史上の初代天皇とされる10代崇神(すじん)天皇の妃は尾張大海媛(おわりおおあまひめ)。草薙の剣の持ち主、ヤマトタケルが結婚したのは、尾張のミヤズ姫で、それ故に熱田神宮で草薙の剣がまつられている。

 そして6世紀の継体天皇と尾張のメコ姫との間に生まれた二人の皇子は、安閑(あんかん)、宣化(せんか)天皇に即位している。ここまでは、天皇家に夫人を送ることで、その勢力を発揮してきた。

 そして、672年の壬申(じんしん)の乱では、天武天皇(ちなみに当時は、大海人(おおあま)皇子と呼ばれており、前記の崇神天皇の妃の名前からも尾張との関係の強さがうかがわせる)が、尾張をはじめとする東日本の勢力を味方に付けて、兄の天智天皇の子、大友皇子を倒した。

 これだけ活躍しながら、結論から言えば、尾張は「ヤマト」の中心になることはできなかった。

 そもそも、邪馬台国と戦った狗奴(くな)国が尾張であるとの説もあり、敗北したゆえに纒向遺跡などヤマトの設立に貢献を余儀なくされた可能性もある。

 

 日本のNo.1になるという悲願は900年後の織田信長まで待たないと実現されない。しかし、「No2」、脇役としての尾張は古代史を通じて、侮れないものがあったのだ。

信長を産んだ風土

 戦国時代の英雄王、織田信長が生まれたのは、1534年。

 生まれたころの尾張はまだ統一されず、織田一族が北と南を分断して統治していた。熱田神宮のある南部を抑えていた信長は、真清田神社のある北部の支配を虎視眈々と狙っていた。 

 チャンスが訪れたのは、1558年、24歳のときだ。反信長勢力だった北部の岩倉城で内紛が起こると、若き信長はすかさず出陣した。

 ところが、機動力こそが最大の武器の信長なのだが、どうしたわけか岩倉城を大きく迂回して、城の北側の真清田神社に近い「浮野」に布陣したのだ。岩倉城を制覇すれば、天下へ向けて打って出られる。信長はそう思ったのだろう、特徴であるスピードをなげうっても、尾張一の宮に必勝を祈願したにちがいない。

 

 かくして、岩倉城は激戦の末に落城。翌年の桶狭間の戦い以降も神がかり的な強さを発揮する。

 

 信長は、のちに比叡山焼き討ちや本願寺衆徒の大殺戮をすることから、宗教の弾圧者とのイメージがあるが、晩年の安土城にも城内の大事な場所に総見寺を建立するなど、当時としては常識的な宗教観をもっていた。

 

信長が切り取った蘭奢待を宝物館で見ることができる 

 

 信長自身は、平家の子孫を自称していたが、ヤマト創建から1300年来の夢をはたして畿内を支配してくれた尾張氏の祖神ホアカリもさぞ喜んだことだろう。そして信長の後を継いだ豊臣秀吉は全国統一を実現する。

 真清田神社には、信長が天下人として切り取った正倉院(東大寺)の香木「蘭奢待(らんじゃたい)の一部が奉納されており、宝物館(入場料200円、入館午後3時まで)で見ることができる。尾張が天下をとった証しをこの目で見てほしい。

 

 地方の力が強いとき、つまり乱世において、尾張はその力をいかんなく発揮する。しかし、平和が訪れて中央集権が強まると今度は徹底的に抑えられる、そうした歴史が日本では続いてきた。

 地方分権の時代といわれる現代、名古屋を擁する尾張は輝きを増している。

〔基本情報・アクセス〕

真清田神社

〒491-0043 愛知県一宮市真清田1丁目2番1号

JR尾張一宮駅また名鉄一宮駅下車徒歩8分、または本町1丁目バス停下車すぐ北

電話0586-73-5196

 

www.masumida.or.jp

 

この記事は恵美嘉樹『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫、現在は電子版のみ)を加筆修正しました。

 

全国「一の宮」徹底ガイド PHP文庫

全国「一の宮」徹底ガイド PHP文庫