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尾張一の宮「真清田神社」歴史ガイド~信長登場まで1300年間No2に甘んじた最強の地域

東海道 尾張国(愛知県) 真清田神社/祭神:天火明命(ほあかりのみこと)

熱田神宮が有名だが一の宮は一宮市にあり

 織田信長と豊臣秀吉、戦国時代の二人の天下人を生んだ尾張。ここはある意味で日本で一番有名な一の宮かもしれない。というのも、全国の行政市で「一宮」の名を持つのが「愛知県一宮市」だけだからだ。

 

 ところが、肝心の神社の名前のほうはかえって知られていない。尾張で最も有名な神社ときけば、三種の神器のひとつ「草薙(くさなぎ)の剣」をまつる熱田神宮(名古屋市)と答える人が圧倒的に多いだろう。

 真清田(ますみだ)神社の祭神、ホアカリは、古代の豪族、尾張氏の祖神。

 

ヤマト王権を作った裏方「尾張」

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 古墳時代に尾張氏は東海地方で最大の勢力を誇った。彼らは単なる一地方の豪族ではなかった。

 考古学的には、ヤマト王権の創立の立役者であることがわかっている。それどころか、2番目の「ヤマト」といってもいいくらいの力があった。

 ヤマト王権初期の中心地は、大和(奈良県)一の宮の大神(おおみわ)神社がある三輪山のふもと。ヤマトの初期の都の可能性が高い纒向遺跡があるが、ここから出る土器で、奈良以外のもののうち、じつに49%が東海から来たものだったのだ。

 纒向遺跡は弥生時代と古墳時代をわける端境期にできた新しい”都市”。しかも、土砂崩れなどの影響で人が住めなかった場所にあえて、ゼロからつくられた人工都市であった。

 この都市作りには、尾張だけでなく西日本からも人が来ていたことがわかっており、新国家「ヤマト」をつくるために全国の人たちが協力(なかば強要されてかもしれないが)していたのだ。その中心に尾張の人たちがいたことは間違いない。

 

前方後方墳という東日本のスタンダード

 

 また、日本を代表する古墳は、前方後墳だが、尾張の初期の古墳には四角と四角を組み合わせた「前方後墳」が多い。ふつう、考古学の世界では、前方後円墳に劣るものと位置づける。

 しかし、それは後世からみた結果論であって、ヤマト王権ができた時代には、「大和」型の古墳と、「尾張」型の古墳が同じ価値をもって併存していた可能性もある。

 さらにヤマト王権ができる過程で、東日本に広がった「ヤマト」的な祭りや道具などに使われたとみられる土器の形が、じつは尾張型だったことが最近の考古学の調査でわかってきている。つまり、尾張とは、東日本を管轄する裏「ヤマト」だったわけだ。

 

NO.2の矜持

 古代に尾張は4度、裏方として登場する。

 歴史上の初代天皇とされる10代崇神(すじん)天皇の妃は尾張大海媛(おわりおおあまひめ)。草薙の剣の持ち主、ヤマトタケルが結婚したのは、尾張のミヤズ姫で、それ故に熱田神宮で草薙の剣がまつられている。

 そして6世紀の継体天皇と尾張のメコ姫との間に生まれた二人の皇子は、安閑(あんかん)、宣化(せんか)天皇に即位している。ここまでは、天皇家に夫人を送ることで、その勢力を発揮してきた。

 そして、672年の壬申(じんしん)の乱では、天武天皇(ちなみに当時は、大海人(おおあま)皇子と呼ばれており、前記の崇神天皇の妃の名前からも尾張との関係の強さがうかがわせる)が、尾張をはじめとする東日本の勢力を味方に付けて、兄の天智天皇の子、大友皇子を倒した。

 これだけ活躍しながら、結論から言えば、尾張は「ヤマト」の中心になることはできなかった。

 そもそも、邪馬台国と戦った狗奴(くな)国が尾張であるとの説もあり、敗北したゆえに纒向遺跡などヤマトの設立に貢献を余儀なくされた可能性もある。

 

 日本のNo.1になるという悲願は900年後の織田信長まで待たないと実現されない。しかし、「No2」、脇役としての尾張は古代史を通じて、侮れないものがあったのだ。

信長を産んだ風土

 戦国時代の英雄王、織田信長が生まれたのは、1534年。

 生まれたころの尾張はまだ統一されず、織田一族が北と南を分断して統治していた。熱田神宮のある南部を抑えていた信長は、真清田神社のある北部の支配を虎視眈々と狙っていた。 

 チャンスが訪れたのは、1558年、24歳のときだ。反信長勢力だった北部の岩倉城で内紛が起こると、若き信長はすかさず出陣した。

 ところが、機動力こそが最大の武器の信長なのだが、どうしたわけか岩倉城を大きく迂回して、城の北側の真清田神社に近い「浮野」に布陣したのだ。岩倉城を制覇すれば、天下へ向けて打って出られる。信長はそう思ったのだろう、特徴であるスピードをなげうっても、尾張一の宮に必勝を祈願したにちがいない。

 

 かくして、岩倉城は激戦の末に落城。翌年の桶狭間の戦い以降も神がかり的な強さを発揮する。

 

 信長は、のちに比叡山焼き討ちや本願寺衆徒の大殺戮をすることから、宗教の弾圧者とのイメージがあるが、晩年の安土城にも城内の大事な場所に総見寺を建立するなど、当時としては常識的な宗教観をもっていた。

 

信長が切り取った蘭奢待を宝物館で見ることができる 

 

 信長自身は、平家の子孫を自称していたが、ヤマト創建から1300年来の夢をはたして畿内を支配してくれた尾張氏の祖神ホアカリもさぞ喜んだことだろう。そして信長の後を継いだ豊臣秀吉は全国統一を実現する。

 真清田神社には、信長が天下人として切り取った正倉院(東大寺)の香木「蘭奢待(らんじゃたい)の一部が奉納されており、宝物館(入場料200円、入館午後3時まで)で見ることができる。尾張が天下をとった証しをこの目で見てほしい。

 

 地方の力が強いとき、つまり乱世において、尾張はその力をいかんなく発揮する。しかし、平和が訪れて中央集権が強まると今度は徹底的に抑えられる、そうした歴史が日本では続いてきた。

 地方分権の時代といわれる現代、名古屋を擁する尾張は輝きを増している。

〔基本情報・アクセス〕

真清田神社

〒491-0043 愛知県一宮市真清田1丁目2番1号

JR尾張一宮駅また名鉄一宮駅下車徒歩8分、または本町1丁目バス停下車すぐ北

電話0586-73-5196

 

www.masumida.or.jp

 

この記事は恵美嘉樹『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫、現在は電子版のみ)を加筆修正しました。

 

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遠江一の宮「小國神社」歴史ガイド~古い東海道のなごり・家康と武田信玄の狭間で

遠江国(静岡県) 小國神社/大己貴命《おおなむちのみこと》

古い東海道のなごり

 東海道というと、富士川、大井川、天竜川という3本の大河川を越える街道として知られている。しかし、これは江戸時代の話で、古代の旅人は大河川をわたるよりも山べりを歩くことを選んでいた。

 遠江(とおとうみ)や隣国三河一の宮の砥鹿神社(愛知県豊川市)の置かれた位置をよく見ると、そのことがよくわかる。小國(小国、おくに)神社も海から遠い、まさに「とおとうみ」な場所にある。
 時代が下るにつれて、世の流れからは外れていったのだろうか、神社にはかえって古い景観が残されている。清らかな宮川が境内を流れ、長い参道の両脇には、伊勢神宮の外宮(げくう)を思わせるほどの格式を漂わせる杉の古木が並ぶ。

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大国主が「おくに」に?


 社伝では、古墳時代後期の欽明天皇の時代である555年に、神社の背後にある本宮山に神霊が現れ、それをまつるために都から勅使が派遣されて現在地に社殿を造営したとされている。以来、南北朝の戦乱が起きるまで、勅使がマツリゴトをするために往来したという。(1680年の社記より)

 原初のヤマト王権の姿は、大王(天皇)の血族が全国各地へ散り、祭祀を行うことで国をまとめていた。その名残が千年にわたり続いていた場所ならではの空気が境内には流れている。

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 祭神はオオナムチ(大己貴命)、つまり大国主だ。在地の豪族たちが信仰していた神が「国ツ神」の長という一般名詞である「オオナムチ」の名を与えられたのだろうか。神社の名前は、遠江地方が小国と呼ばれていたためとされるが、大国主の「おおくに」が変化して「おくに」になったのかもしれない。

 平安時代の法律書、延喜式(えんぎしき)には小国神社の名はなく、「事任(ことのまま)神社」(願い事がそのまま叶う)とあり、この名は小国神社の古名だとされている。どうやら平安時代以降に、在地の信仰が続いていた遠江に、全国的に拡大するオオナムチ信仰が入りこんだようだ。

 

 その証拠のひとつとして、前述した神社から北へ6キロ離れた標高511メートルの本宮山があげられる。山頂には奥宮として奥磐戸神社があるが、少し離れた場所の山を神格化するのはオオナムチ系神社の典型である。

 オオナムチを祭神とする三河一の宮の砥鹿神社も同じように離れた山を奥宮としている。

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徳川と武田のはざまで

 これもまた三河と似ているのだが、小國神社は、天竜川をのぼれば信濃(長野県)へ抜ける重要なバイパスの入り口にある。そのため、戦国時代には徳川家康と武田信玄の間で揺れ動いた。
 数多くの権謀や裏切りの中、神社は家康方につく。

 面白いのが、信玄と家康との間にたち、「家康公」についたときの逸話だ。

 元亀3年(1572)のこと。地元の武士の武藤氏定が武田信玄になびいたが、神社は家康に神主の息子を人質を出した。家康は神主に御神霊を別の場所に移させて、太刀「三条小鍛冶宗近」(2振りが宝物となっている)を与えて戦勝を祈願したあと、社殿に火を放った。(略記より)

 えっ、家康が火を放った?

 元亀3年といえば、年末に三方ヶ原の戦いで、浜松城主の家康が信玄に大敗した年だ。小國神社のある遠江の山際の拠点は、天竜川をおさえた二俣城(浜松市天竜区)だが、ここも信玄によって包囲され、2か月の籠城の末に三方ヶ原の戦い直前に陥落している。

 当然、二俣城から東へ約8・5㌔の小國神社一帯も武田軍に抑えられただろう。神社の南には、真田城跡という山城が残っている。

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 この城の歴史をみると、真田城主は上の武藤氏定で、信玄に属して、三方ヶ原の戦い後、信玄が死んで家康が逆襲をはじめたが、武田方でありつづけ、小國神社(真田城とイコールか)にたてこもり、家康に攻められたことがわかる。

 

 やはり家康が社殿を燃やしたのであろう。氏定は武田側の遠江の最前線・高天神城(掛川市)へと入り、壮絶な籠城戦を家康と繰り返す。(高天神城は天正2年=1574年に武田勝頼が家康から奪取)

 家康は天正3年(1575)に二俣城を、天正9年(1581)に高天神城を奪い返す。この間に家康は小國神社を手中にし、遠江の支配の正統性のために、一の宮である小國神社を保護する。(燃やしておいてなんだが)

 社伝では、天正3年に家康の家臣本多重次(陣中から妻に送ったとされる「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」で有名な武将)に本殿を造営させ、その後、次々と増築させている。(現在の本殿は明治19年再建)

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 戦国時代の生き残り方策として、この地域の俗のトップである武藤氏が武田に、聖の小國神社が徳川に、と分かれて、保険をかけたということは十分にありえるだろう。

 この賭けは成功し、願いが叶う神社として家康にアピールすることができた小國神社は江戸時代に隆盛を極め、そして現在、山奥といってもいい場所ながらも天下人の崇敬のなごりからか参拝客は絶えない。

 

 

基本データ 小國神社

〒437-0226 静岡県周智郡森町一宮3956の1
新東名高速道路「遠州森町スマートIC」(ETC必要)から約7分、「森掛川IC」から約15分、東名高速道路「袋井IC」より約20分、JR掛川駅から車で約30分。または天竜浜名湖鉄道遠江一宮駅より送迎マイクロバス(日曜日、1日・15日、正月、6月の菖蒲園開園時など運行)にて約10分

交通案内|遠江國一宮 小國神社|アクセス方法・駐車場・周辺地図・観光-静岡県西部森町一宮(とおとうみのくに いちのみや)


電話0538・89・7302

公式HP 

遠江國一宮 小國神社|縁結び・厄除け・祈願・結婚式-周智郡森町一宮(とおとうみのくに いちのみや おくにじんじゃ)

*マイクロバスなどは上記の公式HPなどで最新の情報を確認してください。

 

(本記事は、恵美嘉樹『全国「一の宮」徹底ガイド』に加筆しました)

 

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陸奥「一の宮」の地位が福島県から宮城県へ奪われた理由とは

 一の宮というのは、各地域のNO1の神社です。一の宮、二の宮、三の宮くらいまで、各国(阿波国とか長門国とかの旧国)にあります。
 ただ、国が指定した制度ではないので、昔は一の宮だった神社も、その後の盛衰によって、ほかの神社に奪われてしまうことも多々あります。
 世の中的にほぼ完全に奪われてしまったのが、陸奥国武蔵国です。
 
 たとえば、武蔵国というのは、東京、埼玉、神奈川北部という日本の人口的に圧倒的な巨大な国ですが、そこの一の宮は、小野神社。
 東京の多摩川沿いにひっそりとある宮司さんが常駐していない小さな古社です。
 ふつう武蔵一の宮は、JR大宮駅の名称の由来である大宮こと氷川神社さいたま市)です。

 でも、ここは本当は三の宮です。下克上ってことで。

 同じように陸奥一の宮も、ふつうは陸奥国府のあった多賀城を守る塩釜神社とされています。


 しかし、陸奥の場合も、本来の一の宮福島県棚倉町という南端にある都々古別神社(つつこわけじんじゃ)だったのです。

 地元の新聞(福島民友新聞)の(2013年4月7日)のニュースにすら一の宮と書いてもらえないとは悲しい……

県内最古の「三間社流造」 棚倉・馬場都々古別神社本殿
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 会津藩家老の西郷頼母(たのも)が宮司を務めたとされる馬場都々古別(ばばつつこわけ)神社(棚倉町)の本殿が、室町時代末期から安土桃山時代のものとみられることが6日までに、同町伝統文化活性化委員会の調査で分かった。同委員会によると、同神社本殿の造りは「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」と言われ、同様の建築様式の中では県内で最古の建物に属するとみられるという。

 同委員会によると、文献や本殿の劣化状況、中世にみられる簡素な技法から建築時期を判断。昨年から専門家に委託し、調査を進めてきた。
(略)
 文献によると、同神社本殿が1594(文禄3)年に造営された可能性が高いとされている。
(略)
(2013年4月7日 福島民友トピックス)

どうやって一の宮が奪い、奪われたのかというのは、むろんはっきりと明示されるような史料はないのですが、歴史的な状況を見ていくと、だいたい想像はつきます。

陸奥の場合は、日本(ヤマト)の国境がもともとは福島県と茨城・栃木県境にあったのが、どんどんと北上して、多賀城付近まで持ち上がり、それに伴い、国境線を守る強力な神社も移動していった、、、など。


詳しくは拙著にも書いてありますので、よかったらどうぞ。↓
ちなみに、一の宮の座をめぐり各国で、いまなお激しい接戦が続いている地域は九州です。

 

 

単純に神社というだけでなく、
神道・神話・神社の創建の経緯などの中から
内容が重複しないように、面白い話を選抜して書いてあるので飽きません。
神社紹介本を何冊か読みましたが
神社=ツマラナイという図式をそのまま文章にしたような――

――厳粛な空気が!とか荘厳な雰囲気が!とか、考えるより感じろ!みたいな…
――感じればいいのなら、行ってから感じるわ〜、そんなこと書かんでいいのに…

的なものが多い中で、この本はズバ抜けて面白いと思いました。
一宮めぐりなんてフツーの社会人だったら実際には出来ませんからね。
コレ読んでおいて、近くに出張あったら行きたいなーとか
旅行で寄ってみたいナーなんて妄想するにはピッタリ。
一気に読んでしまいましたわ〜
(amazonレビューより)

Wikipedia「都都古別神社」より

棚倉町には「都都古別神社」と称する神社が2社、馬場と八槻大宮にある。どちらも同じような由緒を伝え、同じ祭神を祀り、名神大社陸奥国一宮を称しているが、共通の祭事はなく、別の神社である。このように「都都古別神社」がなぜ同町内に2社あるのか、その理由は不明であるが、現地では両社を区別するため鎮座地名をとって馬場都都古別神社(ばば―)・八槻都都古別神社(やつき―)のように呼んでいる。同じ久慈川沿いにある馬場都都古別神社、八槻都都古別神社と近津神社と合わせて近津三社と言われ、馬場都都古別神社は上之宮、八槻都都古別神社は中之宮とも呼ばれる。(wikipediaより)